2015年12月23日水曜日

ロボットが労働者の雇用を奪う時代

アマゾンで安く買えた『大変化する株(1990)』を読んで。

鉄腕アトムだったか火の鳥だったかで、ロボットが一般化した社会で問題になってたりした気がします。

ロボットの普及により、人は働く必要がなくなるどころか、仕事をとられて給料が手に入らなくなり、生活が苦しくなる人が増えるというディストピアな設定で、労働組合がロボットの解雇を要求し、ロボットを破壊するデモンストレーションが行われていたりするような話。

中国、産業用ロボット購入数で世界一に

勢いではすでに中国が上回っている様子ですが、現在使われているロボット数では日本、アメリカのほうが多い様子。作るのも日本が強いしね。

しかし、アメリカよりも日本のほうが多いというのは、国の規模なんかを考えてもいまさらながら驚くべきことなのかもしれない。

日本の車が世界の市場を席巻し、貿易摩擦を起こしていたころからもう長い時間がたちますが、ロボットによる効率化などで対抗しようとはしなかったのでしょうか?

と、そこにはやはり上述のロボットと労働者の関係があるのではないだろうか。
もちろん、現在の日本でも、人力での流れ作業がないわけではない。食べ物などやわらかかったり、果物の大きさの不均一さがあったり、また車ほどに単価が高くないという場合には人間の対応力の高さはまだ機械にはない。

日本でロボットの導入を行ったのは機械が人間の代わりに全部やってくれるユートピアを作るためにやったわけではなく、工業生産の効率化のためであったはず。上述の株の本にも、オートメーション化(ロボット導入)を進めている企業は伸びると、株価が上がる企業の選び方にも挙げられていました。

上述の本、1990年1月に発売され、株の本としては株価がまさにピークになったあたりに出た本になります。その当時、もっと株価が伸びると思っていたろうと思いまして。きっと明るい未来を描いているんだろうなと。

当時の情勢では、ジャパンアズナンバーワンとして国外債権の多さやら、世帯あたりの貯蓄額の伸びやらを誇っており、今後も株価は伸びるだろうと予測していました。
12月末の日経平均株価3万8915を上回り、1990年中には4万を超えるであろうと、さらには個人的な予測では1990年前半のうちに4万超えを達成することも十分可能との見込みである・・・と。

結果をみると、実際にはここから株価は下がっていくことになります。株価のピークは1989年12月、不動産のピークは…市街地価格指数のピークが1990年9月ごろらしい。バブル崩壊が叫ばれたのはよくわからないが、景気指標では1990年11月にピークがきていて、数字の上でのバブル景気は1991年2月まで。

就職の学生側の売り手市場は1992年度まで?で、バブルの象徴みたいにテレビでもいの一番に出てくるジュリアナ東京は1991年5月から1994年8月末まで。1993年11月ごろの警察の指導によるお立ち台撤去あたりから客足が減ったというので、それまではかなり盛り上がっていたのでしょう。

槇原敬之の『どんなときも』は1991年6月に公開された映画『就職戦線異常なし』の主題歌であったそうな。
就職活動に苦労する話ではあるのだけれど、バブルの時期のかなり贅沢な悩みの中での就活の模様。
友達との見栄の張り合いで就職先を妥協できないみたいな部分があった様子ですが……まあ贅沢な悩みですわな。

これらの株価と社会の動きを見ていると、確かに株の値動きは実経済よりも数年早いのかもしれません。

本題のロボットの話にもどります。

株価が上がる企業の選別方法について上述の本で書かれていました。1990年(実際書かれたのは1989年)のころ、大手企業の中でも多くの株が発行されていて、株家も高い水準にあった大型株では価格は下がり気味となっていて、株価を押し上げる原動力となっていたのは小型の株が伸びてきていたことにあるようです。

これはこれで今となっては株価が伸び悩み始めていた兆候なのではないかとも考えられる気がしますが、その当時株価を伸ばしていた企業の目安となるものは、株式の分割とオートメーション化、それにともなうリストラでした。

1990年の本に何の臆面もなくリストラという言葉が出てくることに驚きました。もっと後になって、クビの言い換えとして叩かれたころのことしか知りませんでしたが。

Wikipediaでも「リストラはペレストロイカというロシア語を英語化したものだ(要出典)」と書かれています。出典なんて知らないものの、1985年ごろから始まったらしいソ連のペレストロイカ同様、本当に最初のころはプラスの意味で使われていたらしい。

オートメーション化というのは、つまりはロボット、機械による自動化であり、ロボットの導入であるはず。
著者は、「オートメーション化による効率化が企業の利益を増大させ、それに伴う人員の再配置のためのリストラを行う企業は今後大きく伸びることが見込める」と書かれていて、ひょっとしたらクビではなく工場数を増やしてロボットのオペレーターとして再雇用することを意味しているのかもしれない。

また、景気がよかったころには解雇しても特に再就職が容易であるとの背景から問題にされていなかったのかもしれない。

企業のリストラが一般化したのはいつからですか??[Yahoo知恵袋]

株の分割が実際の企業の利益にどう意味があるのかはよくわかりませんが、任天堂なんかが株の50分割なんてのをやっていることがいい例として挙げられています。
分割は、高騰していた株の単価をさげつつ数をふやし、多くの人が手にできるような状態にして、時価総額(株価の合計)のさらなる上昇を目指せるようにするという点で、確かに株価の上昇には寄与するようです。


日本でロボットが普及したことには、工業用ロボットが出始めた時期・・・あるいは実用段階になりつつあった1990年ごろに、バブル景気によって労働者の解雇が容易だった時代が影響しているのではないだろうか。そして、そのような異常な盛り上がりを経験していない以上、他の国ではロボットを普及させるチャンスがないのではないだろうか。

あるいは、ロボットを普及させたときの労働問題などについてすでに起こっていて、ロボットの導入台数をある程度で止めなければならないのかもしれない。

現在の日本では、若者の給料の低さが問題になっており、それの一端は年功序列でバブル期以前の社員の給料を下げるわけには行かない・・・というような部分もあるのですが、ロボットの普及もあるんじゃない?と思ったり。

なお、都市部の平均収入は1997年までは伸び続けていたらしい。
消費税、アジア通貨危機あたりですかね。このころにはバブルの不良債権もだいたい片付いていたらしいのですがどうして不況がこんなにのびたのやら。


ロボットが使われていること、あるいはロボットを使うことによる社員ひとりあたりの収入は、果たして伸びるのか抑えられるのか。

ロボットが働いてくれる分を社員で分ける・・・と考えれば、つまりロボットの給料をもらえてしまうと考えれば社員の給料は上がる。

ただ、ロボットの維持費、ロボットの所有者である企業の取り分等を考えるとわからない。

また、物余りという状況の中では、ロボットの生産力と維持費で見られるコスパは悪化しているわけで、会社はロボットを従来の能力に維持するために投資しながらも、社員の取り分を減らさねばならないとなっていくのかもしれない。

仮に今日本から産業用ロボットをなくしたら・・・・・・
そのときは、きっと生産性がガタ落ちになり、生産品の価格はやたら上がり、同時に収入も大きく下がって日本崩壊となるに違いない。
しかし、ならばこの狭い国土にアメリカの倍の数のロボットがあるにもかかわらず、現在の日本の苦境は何なのだろうと考えるとわからなくなってしまう。

なぜ、他の先進国は日本のようにロボットを導入しないのか?
なぜ、ロボットがあっても日本人は豊かにならないのか?

実際のところ、高度経済成長からバブルのころなんかが異常なのであって、現在の総中流社会なるものを維持することは、実質不可能だったのかもしれません。デフレが終わってからじゃないと判断できませんけれど…て、今もまだデフレなのだろうか?ちょっとだけ上がってるのかな。

2015年12月6日日曜日

ユーフォニアムは児童ポルノらしい。マジかよ那珂ちゃんのファン辞めます

糞箱も売ってくるか。

久美薫氏のユーフォニアム批評について、

・批評内容を読んで同意できない
・実害が生じるから叩く

の2つの立場から、批判する理由を考えていきます。今回は下の、この批評による実害のほう。

前半のほうは前の記事

実害があるから叩いているなどと言ったら、久美氏などは「みなさん痛いところを突かれてお怒りの様子。効いてるwww効いてるwww」と喜びそうですが、今回は別の話。


この批評は、特にアニメなんて興味の無い層に浸透しかねない危険を持っています。

幸いにして、「金管楽器は男性器。金管楽器を持った少女の絵はすでにポルノ」という意見については全く受け入れられていないので、この論理をまともに受け入れる人はごく少数でしょうけど。

こういうのは、ゲーム脳、アダルトゲームで人間性が破壊されるといった主張が今までにも出ていましたが、それらと共通する似非科学みたいなものです。

似非科学は何故信じられるか?という本がありました。読んでませんが。しかし、今回こういう怪しい批評を広めるために必要なものは以下のようになります。

・書き手の肩書き(医師、専門家、○○年の実績)
・批評内容の"インパクト"
・批評対象への嫌悪感

これくらいである。上記に正しさなんてものは一切含まれていない。
インパクトについては、なるべく分かりやすく、かつ内容の風呂敷を大きく広げてやることで、短い時間に強い衝撃がドン!と来ることになる。それがインパクト。

今回は、萌え美少女の出てるアニメは海外ではポルノ!しかも今問題になってる児童ポルノ!世界中で日本だけが異常!

という内容で、大変分かりやすく「萌え豚死ね」と結論が出る。

多数の著書を持つメディア批評の専門家先生が言ってるので間違いないらしい…と肩書きをチラつかされると、どうにも弱いものです。そして、そもそも批判されているのはオタクやらオタクで構成された業界であるアニメ業界。

このような論評を見たアニメに興味の無い人は、比較的受け入れてしまいがち。
そういう論理は、「オタクはキモいと思うが、別に明確な根拠はなく、過去にオタクに嫌な思いをさせられた個人的なエピソードがあるわけでもない」という人の心のスキマを埋めてくれる。
心の奥底にあった、オタクへの蔑視に形を与えてしまい、目に見える形でいじめ、社会的批判などを展開する足がかりを作ってしまう。

短くまとめると、
「偉い先生がオタクはクソだって言ってた。だから俺もオタク叩くわ」
となるのです。

自分に自信の無い層の人間が、人種差別などを通して自分の優位を示せる相手を見つけると、まるで自分が優れた人間であるかのように錯覚できてしまうこととも似ている。

ネオナチに無職が多いとか、ネトウヨはニートが見下せる相手探して韓国人(在日)を馬鹿にしている…などといった論理と同じです。

一人ひとりがどれだけ正しい意見を持っているかとかは関係なく、業界批判が広まってしまえば収集は大変になっていく。戦いは数だよ兄貴。

これらのポルノ批判が正しいものであるなら、考え直さなければならない部分もあるのですが、正直根拠に乏しい部分があり、額面どおりに受け取るわけにはいかない。

さらに、この久美氏は自分の批評の着地点について考えていない様子。

批評というものは、議論の行き着く先のゴールを求めて展開しているわけではなく、単に思いつくままに自己表現しているだけのものです。訳の分からないことを言って、何を求めているのかが分かりにくいのでスタンスを明確にしてほしいという意見が出す人もいるわけですが・・・最初からゴールなど用意されていないんですよね。

なので、議論のゴール地点を堅持する必要もなく、
「金管楽器は口に咥えないから違う?咥えているように見せるだけで成功なんです」
「批判が多いのは痛いところをついたから」
「(適当な論理を展開し)私はもっと深いことを考えて批評しているからあなたの意見は間違い」

とだけ言っておけばなんとなくそれっぽく見える。言い逃れがうまければそれだけでやっていける。



日本が児童ポルノの温床だというのはアグネスあたりが言ってますね。
その実態はAV女優が海外では児童に見えかねないだとか、欧米で問題視している児童というやつはティーンエイジ未満のことで、ティーンポルノは大人気とか、設定年齢18歳のエロゲーのヒロインがランドセル背負ってパンチラしてるとか、ハイエースするという新たな動詞が生まれつつあることとか、全く無根拠な部分から、かなりアウトに近い部分までさまざまです。

(ティーンポルノ:十代の女の子が出演するポルノ。ただし実年齢は19以上。日本の女子校生ものAVみたいなもの。ただし、このティーンポルノ、日本人から見ると余裕で30代以上)

日本では洋モノポルノは60歳以上のババアAVより需要がない

とはいえ、アグネスも金儲けのために言ってるだけですし。

児童ポルノというやつは、撮影の段階で被害者が発生しますし、またそれを見た側が子供を襲うようであれば、児童ポルノは犯罪を助長しているということになります。(ソースはない)

そういったポルノの流通と犯罪の件数は無関係とも、また人によっては逆の相関がある(流通を増やすと性犯罪が減る)という主張もあります。

もっと根本的なところとしては、性犯罪を起こさないよう教育を見直すところから始めればいいんじゃないかな?とか、最近パラオでの日本の教育について書かれた本を思い出しつつ思いました。

仮に児童ポルノについては、流通量が増えれば児童を対象とした性犯罪が減るとしても、生産、流通させるわけにはいかない面がありますが。生産する段階で被写体はまず被害者と言えるでしょう。二次元作品なら被写体の被害者はいませんが。


google検索 エロゲーメーカーminori、海外からのアクセスをブロック

あなたの国で、日本が児童ポルノを拡散させていると批判されており、我々もバッシングを受けているので要望のとおりに対処いたします。

みたいな形で海外からのアクセスをブロックし、海外のファンへの問題提起を行ったことも。
根本的解決にはならないでしょうが、日本側だけに問題を押し付けるのも違うと思うのです。

また、近年の少女の商品化としてはアイドルの低年齢化があり、だっこ会とか問題になりました。
ああいうのはさすがにダメだと思う。 ノータッチですよ。

ユーフォニアムは巻貝であり女性器の暗喩に決まってるだろJK

久美薫という人が、響け!ユーフォニアムを児童ポルノと批評し、話題になっています。

特に、原作のラノベではなく京アニの作ったアニメのほうを。

おたく文化と児童ポルノ

批評というのも罪なもので、それが多くの人に受けいれられるとは限りません。

エヴァなんかを見て「セカイ系」と分析、批評したことについて、それへの反対意見なんかも多くありました。
それ以後、アニメに対して「セカイ系www」とレッテル張りをすることは、その作品に批判的で、、未熟な子供の娯楽と切って捨てるような部分も出てきていたため、現在ではもはやセカイ系と分類すること自体が作品への批判であると受け取られても仕方の無い状態になっていると思います。


以前、私が好きなラノベ『イリヤの空、UFOの夏』について、主人公のロゴスがどうの的な哲学的な分析を行った人がいた気がします。

その際に、2chの作者、作品ファンのスレッドにてこの批評が正しいのかと話題になりましたが、結局は間違っている、ズレているという意見が大勢を占めました。
その際、「批評っていうのは作品をいじりまわして好き勝手言う新しい作品。批評家先生の自己表現なんだよ」とうそぶいてみせた人がいました。

今回のものもそういう面があることは否定できません。また、この人の名前で検索すると出てくる記事として、

アニメ業界の皆さんが久美薫に怒りをぶつける裏事情


などもあり…上のtogetter2つはともに本人が自分でまとめたものなんですが、要するに炎上芸人ってやつですね。まずは目立ってナンボってところでしょう。

そのほか、批評の手法を紹介している本のamazon書評にて、

「批評」とは何か? 批評家養成ギブス(amazon)

>「それは作家の意図ではない」と言われても批評は平気。なぜなら批評は作家自身の無意識まで暴くのだからと言う。

このあたりはまさに、久美薫氏が展開している「あなたがどう言おうと私が言っていることが真理。反論があるのは痛いところを突かれてっしまったからですよね?効いてるwww、効いてるwww」という論理と一致する。

ユーフォニアムが男根であることも、アニメ業界を食いつぶしているのが年長のアニメ業界人であるとも思いませんし(スタッフの待遇は、業界の内から外から、改善されていってほしいとは思っている)、またツイッター用資料として近場の幼女を盗撮した件を指摘されると、今度はポスター上のキスしてる男女を撮影して「盗撮!」とごまかしてみたりと…あまり真に受けるべきではない気がするのですが、こうも簡単に大勢が釣り上げられてしまっているのは何故か。


理由としては、

・この批評が正しいとは思えないから
・この批評が実害をもたらすものだから

このあたり2つの事情があるからでしょうか。

まず、正しいと思えない点について。

ユーフォニアムへの批評としては
・『響け!ユーフォニアム』は児童ポルノと見分けることが難しい。それは児童ポルノとアニメ作品の間に明確な境界線を作ってこなかった業界側に責任があるのである
・世界(西洋人)からみてそうなのだから、日本の文化や表現の自由が歪められる結果になったとしても、それにしたがって修正されねばならない
・そもそも、京都アニメーションは文学的美しさを持った原作本にセックスアピールの暗喩をちりばめ、性に訴えかける低俗な"商品化"を行っている、意識的なポルノの創造を行っている組織である
少女が大きな楽器を抱えている様は、楽器が男根の暗喩であると分かる

…といったことを言いたいらしく、特に最後の"楽器が男根"という部分に「ないわー」と批判が殺到している。フロイト先生だって楽器になんて言及してたっけ?

楽器=男根は、もうそう見えるんならそう見えるんだろうの世界なので、今後ペンでも魔法のステッキでも酸素魚雷でもなんでもチ○コに見えてしまうなら仕方がないよね。

フロントミッションオルタナティブ(戦争ゲーム)のライフルの名前が全部チ○コのスラングな件


で、それ以外について。

・児童ポルノと日本のアニメの境界
久美氏は、手塚治虫の作品が外国で批判された件について、「子供に見せるべきでないものを見せている。規制しろ」といわれたことをセックスのことと断定していますが、これはおそらく勧善懲悪ものの単純な作品にしろだとか、血や暴力の描写が多いと人間性が破壊されて・・・みたいな話と思われます。

そういう面で、日本と海外とでは表現の自由やら、方向性(正義は必ず正しいというアメリカ的な表現と、それ以外(日本以外でもヨーロッパでも)での、正義の味方が生み出す被害者の苦しみ(成敗された悪人の子供が生活に困ってしまうとか)みたいなもの違いとかは優劣ではないですよね。

・西洋人の価値観が正しいか・・・といったらそうでもない。グロバカってやつですね。
というか、西洋コンプだと気づいているんならそれに批判的になってもう一度自分を見つめなおしてみてほしいもの。

・幾多のパンツアニメを抑えてなぜユーフォニアムが選ばれたか
ディスク版で規制解除されてパンツやら乳首やらが出てくるアニメでもないのに、なぜにユーフォニアムが槍玉にあがったのか。

女の子たちが吹奏楽で青春を謳歌しているだけだ!それを応援していて何が悪い!と主張する男性視聴者に対し、それにセクハラ的な嫌悪感を抱く女性がいてもおかしくないと思います。

これは、作品に登場する女の子に内部構造を求めるか否かというような議論を見たことがあります。『美少女の現代史』とか、アニメ漫画の歴史を分析するような本とかに出てきます。

ピーチ姫のように、ただクッパに攫われて主人公の助けを待つだけの中身スカスカのハリボテを肯定するか、さもなくばワガママだったり気まぐれだったりといった個性を有し、主人公(視聴者)の意思だけではどうにもならない思惑を持って動く、いわゆるめんどくさい女を作品中に登場させるか…という部分です。

アルドノアゼロのアセイラム姫は、最初は前者のようなハリボテの存在であり、主人公二人(イナホとスレイン)は彼女のために平和な世界を作ろうと戦うのですが、最終的にアセイラムは平和のために自ら動き、自身の望む平和な世界を作り出しました。これは作者側(虚淵?)による、「お姫様」へのアンチテーゼであったと思います。


・少女のリアルな感情を覗こうとすることは裸を見ようとするようなもの

視聴者は、アニメ中のめんどくさい女の子を通して、リアルな女の子と同じく思い通りにならない相手を通しながらも、最終的には理解しあえ(というかデレる)、ハッピーエンドを迎える展開を求めています。(一方でチョロい子も多いけれど・・・)

「アニメを通して女の子を理解しようとする」というのもアホな響きですけれど、結局のところ男性作者が書いた男性向けの作品で出てくる女の子がリアルなものと考えてはいけない。
読者の側も

・めんどくさい女は嫌い
・相手の考え方を知りたい。そうすればこっちが合わせられるから
・絶対に理解しあえないけれど、女の子の心をストレートに描いた作品は評価する

と、さまざまな立ち位置があります。
ちょろい女の子(チョロイン)はラノベ乙、逆にとことんめんどくさい女は「女性作者のオナニー。萌え豚発煽って笑ってるとこ」と批判されることになる。結局残るのは、半端に女の子の内面を描いているようでいて、現実には存在しない架空の存在となる。毒を抜かれて培養されたワクチンのような、無害で自然界には存在しない女の子っぽい何かでしかない。

ユーフォニアムにも、多少男性視聴者の手に余る部分が存在します。

ユーフォニアムのジョイナス先輩クズすぎてなんで尊敬されてるのかわからん
「心底どうでもいい」発言など、理解が難しかったり受け入れられないと反応が出るのは仕方の無いこと。
私は特に強い思いいれも反発を感じることもなく、作品の流れを眺めていましたが…

>女性作者が描く『うる星やつら』のラムちゃんの裸はセクシャルな意味を持たず、あたるに向けたストレートな好意の表れ。むき出しなのは肌ではなくラムちゃんの心

と、前出の「美少女の現代史」で分析されていますが、心を見せることは裸をみせることと同様に抵抗を持つことであるというのも確かなことです。女の子の心を見ようとする男性視聴者、それに対し全裸の心をご開帳しようとした京アニに対し、女性の立場から嫌悪を示した…ということなのかもしれません。