2015年7月18日土曜日

おおかみこどもの雨と雪 語られない真実とかって何かあるのだろうか

おおかみこどもの雨と雪

うろ覚えで書くトンデモ回想。あれ、こんな話だっけレベル

この作品についての感想やら裏話やらをみていると、批判的?な意見として、花が母親の理想像として描かれているのが気持ち悪いとか、雪の独白の背景に語られない事実があるのでは?というものがあるようです。

思い返してみて、とてもがんばっている姿が印象的だったのでそこは悪くはないと思ったのですが(そもそも、アニメでくらい理想を押し付けてもいいでしょうに。子供に見せる話だと思うし)、私としては、むしろ「親としてあれでいいのか?」という部分もあったり。

また、ストーリーの形式的なもので、これは娘の雪の一人語りで描かれる伝聞形式の物語になっていますが、そのせいで、雪が知らない部分については詳しく描かれず、また花から嘘を教えられていたり、雪自身が隠していたりする部分があるのでは?とも受け取れるようです。

これは怪談話における「これは私の友達が実際に体験した話なんだけど」のような演出に似たものがあります。
雪の解説的な独白が入ることにより、今現在どこかで起こっている出来事を垣間見ているわけではなく、雪の記憶の中にある過去の思い出話を語り聞かされていることになり、作り話を聞かされている可能性さえあるという場面であると言えます。

もちろん実際にこれはフィクションですし、話の内容的にも現実味の無い話ではあります。
しかし、このようにワンクッションいれることにより、「作り話としての人狼の話を見ている」というよりも、「人狼に会ったことがあるとまじめに主張する人の話を聞いている」場面になり、このような見方をすると、話の内容がかえって現実味を帯びて感じられるように思いました。

雪が語らなかった部分として指摘されている部分が、主に自然へと帰っていった雨(弟)に関する描写が少ない点です。

・雨と動物園の狼が出会う場面
・雨とセンセイ(狐)の関係
・雨が家を出て行ていったその後のこと

このあたりは学校になじめず姉弟で行動を共にすることが少なくなったため、雪(姉)は雨(弟)の行動を全て見ていたわけではなく、おそらくは母から聞かされた内容を想像して描いているのだろうと分析している人がいました。実際、動物園のオオカミはわざわざ会いに行ったのに何も話をしてくれなかったように見えますし(実はここで何かを話していた?、雪は一度もセンセイ(狐)に会っていませんし、雨が家を出て行く場面というのも、雪は家にはおらず、雨が一人で家を出て行ってしまうことになります。出て行く前の会話などでも、雨と雪は別れを言っていない様子でした。(母さんと一緒にいてあげてよ・・・と言うのは、もう旅立ちを決意していたからでしょうか)

このような雨に関する描写の薄さの原因として、雪と雨の関係を不仲ととっていた人もいました。
喧嘩もしています。
このような描写の薄さ、曖昧さは監督(脚本?)の意図したものなのか・・・

コミックとしても3巻ほど出ている様子ですが、これは映画のメディアミックスのようなものであり、基本映画以外の部分が追加で描かれている様子などもないようです。

あとのことは想像するしかないですね。隠されているのでは?と言われると気になってしまうので色々考えてみました。しかし私は別に、監督が意図して何かを隠しているとも思ってはいません
あれはああいう話だったのだろうと。オオカミと人間の共存の難しさや、その中で母親として奮闘した人の姿を美しく描いたものなのだろうと思っています。

考えてみると謎が謎を呼ぶ・・・
以下に書いてあることは、私自身も本気では信じていないような内容なので、あまり本気にしないでください。

おおかみこどもというよりオオカミ少女
疑いはじめるとなると、まず疑わしきは語り手である雪になります。オオカミが来たぞ!と叫ぶ少年よろしく全ては嘘なんじゃないかとさえ思えます。そこまで言ったら元も子もないですが、語り手を疑うというのはそういうことになりますよね。

なぜ、最後に突然田舎を出て寮で生活することにしたのか・・・中学、高校は寮つきの学校しかなかったんだっけ?なにやら唐突な展開な気がしました。

重箱の隅をつつくような話をすると、雨があったセンセイ(狐)というものは実在するのか。かつて山を走り回っていた雪は一度も出会うことがなかったのだろうか


もっと怪しいのは花(母)
話の中心となっている人物は語り手の雪というより母親の花ですね。
雪から見た花という存在が、理想的すぎてうそ臭いというような、感情移入できないというような意見をちらっと見ました。
さして長々と不満を並べているわけでもなかったと思うので、ひょっとしたら「なんか花って視聴者から嫌われてそうだよね。ううん、知らないけど絶対そう」くらいの実体の無い評価なのかもしれません。

母の行動として理解できなかったのが、子供がいなくなった後でさえも田舎の家に住み続けたことです。一度文明になれた現代人が田舎で暮らし続けるのは大変だろうと、しかも女手ひとつでトラクターも使わず農業とは・・・

子供がオオカミに変身してしまうことを隠すために田舎に移り住んだのが主な理由であったはずなので、子供が独り立ち(雨は山の中へ、雪は正体をばらす心配もなくなった年頃)した後なら、実家にでも帰れば良いのではと思ったものでした。

作り手側が自然より、文明否定の立場にいるせいかもしれませんが、花の田舎暮らし継続は少々うそ臭く見えました。
花は中学生の雪からは美化されて描かれているかもしれない。しかし、もともと社会に馴染めず弾き出された存在なのかもしれない・・・と感じました。

実際のところ、雨が帰ってくる(顔を出す)のを待っているというのが妥当なところなのでしょうが、考察中はちょっと思い至らなかった。それに思い至るまでに私の花への疑惑はどんどん深まっていき・・・

父親(狼)は生きているのではないか?
姉弟に全く記憶に残らない存在であり、これは家族を捨てていった、または事情があって分かれた父親のことを、子供たちには死んだと嘘を教え込んでいるということではないだろうか?
反証として、花が運転免許を持ち続けていることやら(戸籍もないのにどうやって取ったんだ)、子供を育てるための資金として父親の貯金(かなりの額がなきゃ10年も子供2人を育てられまい)などがありますので、ここに隠し設定などはないでしょう。追求するのは野暮というもの。
死体の無い父の葬式をどうやったんだろう?と後になって思った。

雨(弟)が家を出るまでの真実(憶測)
雨は学校になじめず、一度川でおぼれかけたあたりから変わり始めたと雪(姉)は言い、センセイ(狐)と共に山を駆け巡るようになり、やがて山の主としての立場を狐から受け継ぐべく自然へと帰っていく・・・

しかし、雪が知っているのは家に帰ってきたらもう家出した後で、母親が泥だらけ傷だらけで待っていたというところ。
真相は、

学校になじめない男の子が姉と喧嘩しがちになり、母親にDVしたりした挙句に家出して行方不明

であってももおかしくはない。
姉弟の家での会話も、
弟「姉さん、人の真似なんてしたって無駄さ。僕らはやっぱり狼なんだ」
姉「私はちゃんと人として暮らせる。バカなこと言ってないであんたもちゃんと学校に来な」

という具合で、あまり山や自然を肯定していたわけでもなく文明、人間社会への否定しか述べていなかった気がします。弟は自然に惹かれていったというよりも、単に社会に適応できなかっただけではないか。そしてそれは母にも関係しています。

センセイの怪我は、つまるところ自然の脅威にさらされたからであり、人間はその自然の脅威に立ち向かうために家や畑や機械を作っていったわけです。母親はあの場面で「自然を守るための勉強をして、この山以外ももっと多くの自然を守れる人になって」と言って諭すこともできたのではないか。
動物的な巣立ち、親離れとして描いているのかもしれません。

これがハッピーエンドというわけではなく、姉弟の人(狼)生は今後も続いていきます。2つのアイデンティティを持つ子供が、それぞれ別の進路へ進むところまでを描くことで、この物語の背景に存在する問題・・・自然(狼)と人間の共存の難しさを考えさせるための終わりだったのだろうと思います。


いろいろ書きましたが、自然と文明の共存などは好きなテーマですし、一人前のオオカミとして山へ戻っていった雨の堂々とした姿や、雪も人間社会で上手くやっていけそうな分別を得るまでに成長できたこと、秘密を知っても受け入れてくれる人に出会えたこと(中学は一緒じゃないのか?)、そこまでがんばって2人を育てた花、ついでに閉鎖的でありながらも身内にはとことん親身になって接してくれる村人など、温かい話でした。

自然と文明の共存・・・というと、もはや安易に文明を手放すわけにはいきませんが。生活が不便というだけでなく、今の世界の人口を支えるためにも機械やエネルギーは必要不可欠です。文明が行き詰るということはすなわちひどい数の人間が飢えや貧困の中で死ぬことになります。
近年産業界で言われている言葉でいうと「持続可能な経済成長」というやつを目指していくことにはなりますが、果たして人類の滅亡がどのような形で訪れるものやら・・・